名古屋城を建造した武将は?
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名古屋城は以下の5名を普請奉行として、豊臣秀吉恩顧の諸大名らによる天下普請で築城されました。
加藤清正、福島正則、池田輝政、浅野幸長、加藤嘉明などで構成され築城に動員された人員は20万人
を超えたとも言われています。これには諸大名の財力を消耗させていきました。
これは、豊臣恩顧の諸大名の心底を探ろうとする徳川家康の政策であったとも言われています。
それだけに各大名の負担も容易ではないようでした。しかし慶長19年(1614)には、名古屋城が
完成しました。 |
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名古屋城の歴史
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関ヶ原の戦後,徳川家康は福島正則を改易し,尾張に第4子松平忠吉を封じたが,1607年(慶長12)
忠吉は急逝,かわって第9子徳川義直をその後継としました。しかし清洲は水害の危険が多く
交通の要地であり、また要害の地でもあった那古野が選ばれた。大坂の豊臣氏への備え,東海道の
鎮護として10年、豊臣家恩顧の西国諸大名を動員して〈天下普請〉が興され,石垣,天守,本丸御殿と
作事が行われました。
このとき加藤清正は天守台石垣を担当,作事奉行に小堀遠州(政一)大工棟梁に中井正清その
下に安土城天守を手がけた地元熱田の大工岡部又兵衛らが配されました。
14年冬に完成した城は,北に沼沢地をひかえた台地の北端に位置し,平城の典型である。本丸周囲を
空堀で囲い,その北西に御深井丸(おふけまる),南西に西の丸,南東に二の丸を配しました。
名古屋の地は古くは那古野と記され、室町時代には細川氏、畠山氏とともに足利幕府を支える管領で
あった斯波氏の支配しました。応仁の乱以後、斯波氏の勢力が急速に衰えると
駿河から今川氏親(今川義元の父)が尾張に進出、大永5年(1525)那古野台地に城を築き
末子の今川氏豊を那古野城主としました。しかし戦国の中、天文元年(1532)今川氏豊は斯波氏の
守護代・織田氏の家来筋に当たる織田信秀(織田信長の父)に追放され、那古野城は
信秀の支配下になりました。天文3年(1534)那古野城は生まれたばかりの織田信長に与えられ、
信長は22歳まで居城しましたが、弘治元年(1555)尾張統治の中心であった清洲城に移りました。
その後は信長の叔父や家臣が那古野城に居城しましたが、信長が天下統一を成し遂げるとともに
那古野は廃城となった。天正10年(1582)本能寺の変で織田信長は自刃。
慶長3年(1598)豊臣秀吉も没し慶長5年(1600)の関ケ原の合戦を経て世は徳川
の時代となったのです。慶長12年(1607)徳川家康は九男義直を清洲城主としましたが、清洲城は
大軍を収容するにはあまりにも狭く、水攻めにも弱いため、慶長15年(1610)から
那古野城跡に天下普請で新しい城の築城にとりかかりました。これが名古屋城ということです。
五層六階の大天守が完成したのは慶長17年1612)だが、有名な金の鯱(しゃちほこ)に
使用された金は1万8千両にものぼったという。慶長19年(1614)には実戦に耐えうる
大城郭がすべて完成しました。翌元和元年(1615)徳川義直が初代藩主として名古屋城に入城
以後、名古屋城は徳川御三家筆頭・尾張徳川氏61万石17代の居城となり、西国大名への
押さえの城として、後の明治維新を迎えるに至のです。 |
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戦火の名古屋城
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天守,本丸御殿などは近代までよく残ったが,第2次大戦の空襲で焼失した。とりはずされていた御殿朕絵,天井絵だけが残って往時をしのばせる。そのほか門3棟,東南,西南,御深井丸西北の三隅櫓が残る。御深井丸西北隅櫓は清洲城天守を移築したものといわれる。 |
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復元された名古屋城
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惜しくも空襲で焼失したが、昭和34年に再建された。
1959年大天守,小天守が鉄筋コンクリートで再建され博物館相当施設となり,城跡は名城公園となって
いる。
戦災を免れた3つの隅櫓(西北・西南・東南)と3つの門(表二之門・旧二之丸東二之門
二之丸大手二之門)は国の重要文化財で広大な名古屋城は国の特別史跡に指定されている。 |
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